昨日のブログにも書きましたが、以前僕はmixiに日記をずっと書いていました。その後フェイスブックに乗り換えたので、mixiはもう10年以上開いていなかったんですが、昨日久しぶりに自分のページを開いてみると、最後の日記は2013年5月2日、タイトルは「走ることは、求道である。」でした。引き出しを整理していたら、出てきた懐かしいものを手に、しばらく思い出に浸ってしまうことがあるように、昨日から昔のmixi日記を読みながら、当時のことをいろいろ思い出しています。そんな過去の日記の中から、走り始めたばかりの2008年9月にはこんなこと👇を書かいてましたので、昨日に続いて17年前の自分からの投稿として、本日もこちらに転載させていただきます。
村上春樹は、自分にとっての「まじめに走る」ことの定義を、「週に60キロ、一ヶ月におおよそ260キロ」と言っているけど、レース出場暦ハーフ1回だけの僕の月間走行距離の目標は月120キロ。今年の1月から8月まで、6回守れて、2回守れていない。
走っていると、いろいろなことを感じる。最近強く感じるのは、「時間」の感覚。一歩後ろは、すでに過ぎ去った場所で、もうすでに変更することはできない。
同様に、10メートル先は、どんなに足を伸ばしても届かない場所で、現時点では、変化させることはできない領域だ。だから、過去と未来の狭間に僕はいて、がんじがらめになっている。
しかし、現在のこの数秒だけは、僕が自由に操ることのできる唯一の場所。
うしろから片足を振り出し、かかとから着地すると同時に足の筋肉を固め、地面からの反動を利用して、からだを前に移動させる。同時に、バランスを崩さないよう、上半身をひねり、次の片足を繰り出す。
がんじがらめになりながらも、この数秒だけは自由に動けることに、幾分おおげさだけど、不思議な“喜び”を感じる。
この数秒に、どれだけの意味を見出すことができるかというのは、今まで考えていた以上に、重要なことであると感じるし、そう感じれば感じるほど、この数秒が輝き、動かせる時間が、延長されているようにさえ感じる。
そうして、僕は、前に、前に進んでいる。
そんなふうに、過去は動かせない。未来も動かせない。動かせるのは、現在の数秒だけなのだけれど、よく考えてみれば、動かすことのできるのは、現在だけではないことにも気づく。
間違った方向へ、間違ったテンポで走れば、思ってもいない所で、思ってもいない時間に彷徨うことになるけれど、目標をきちんと設定し、現在の数秒を正しく動かせば、当たり前だけど、思っていた場所へ思っていた時間に到達できる。
また、現在の軌跡が過去なのだから、現在の数秒をどう動くかで、直前の軌跡はコントロールできているとも言えるだろう。
現在の数秒をほんの少し動かすことは、未来も過去にもつながっている。
時間とは、なんと不思議なものなのだろう、と改めて思う。
2008年09月01日09:31
酔っ払って書いたのかと思いましたが、祝日でもない月曜日の午前9時31分に更新されているので、さすがにそれはなく、白昼夢でも観てたんですね、きっと(笑) ということで、過去の方ばかり見ているのは単なる自己満足だし、この日の記事にある通り、自由に動けるのは未来に向けた現在だけなので、明日からは「未来に向けた話題」に触れていきたいと思います、たぶん(^^;
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